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ナンシー(スクーター)
ジョーのワイフとミッツイー・植田
スキップ(左端)
坂本、ジョー、ミッツイー
ジョー・マクモニーグル
タワーのあるナンシー・ペン・センター
ロバート・A・モンロー



ジョーもスクーターも大の日本びいきで、大の日本通です。
ジョーは毎日「禅」の瞑想を欠かしません。リモート・ヴューイングをするときに「空」になるのは禅の瞑想が一番いいのだそうです。
スクーターは少し日本語が話せます。禅の修業で京都に何回も来ているのです。

ジョーの著作
The Stargate Chronicles   翻訳本「FBI超能力捜査官ジョー・マクモニーグル」
The Ultimate Time Machine  Hampton Roads Publishing Company
Mind Trek          翻訳本「マインドトレック―遠隔透視の全貌」
Publishing Company

Remote Viewing Secrets       Hampton Roads Publishing Company

ジョーはモンロー研から車で数分の所に住んでいます。これまでアクアヴィジョン・アカデミー主催のジャパニーズ・ゲートーウエイ・ヴォヤッジのプログラムで私達が行ったときは、必ずレクチャーをしに来てくれました。
ランチを参加者と一緒に食べてくれたり、著書にサインをしてくれたりと、スケジュールが許す限りは、顔を出してくれています。

ジョーがモンロー研で長期にわたる訓練を受けていたときに、モンローと共にモンロー研の経営と運営を、当時実際にしていたのがモンローの義理の娘ナンシーでした。
ニックネームはスクーター。
彼女はモンローの3番目のワイフである、ナンシー・ペンの連れ子です。スクーターはジョーのトレーナーとしての任務にもついていました。
モンロー研では参加者とトレーナーの恋愛や交際はご法度になっていました。しかし二人は恋におちたのです。規則を破っての大恋愛でした。


今でも二人はソウルメイととして、また人生のパートナーとしてとっても仲がよく、理想なカップル
です。

ジョーが冷戦中のソ連がおこなっていた「サイキック・スパイ」「人間兵器」に対抗するアメリカ側の「サイキック・スパイ」として米国陸軍で訓練を受けていたある時期に、当時のジョーの上司であったスキップ・アットウオーター(現在はモンロー研のリサーチ部門の最高責任者)の命を受けてモンロー研にやってきました。

モンローに迎えられたジョーは、ラボにあるチェックユニットに入り、ヘミシンクのセッションを受けました。そこでいきなり体外離脱体験をしたのです。
セッションが終わってからジョーが聞いたことは「一体私に何をしたのですか?」だったそうです。


モンローはジョーがリモート・ヴューイングをし易くなるように、ジョーにジョーだけのオリジナルのヘミシンクテープを作成して与えました。
ショーはそのテープを何回も聴いてトレーニングをしました。

実はジョーはFBI捜査官ではありません。米国陸軍に所属する軍人で、「スターゲイト」のプロジェクトではリモート・ヴューアーとして活躍しました。
国家機密に関する仕事もしたので、そのイメージがテレビ番組製作者にFBI捜査官のタイトルを付けさせ、それがそのまま日本で定着してしまった、といったところでしょう。
また名前の読み方ですが、マクマナゴーが近い発音です。ローマ字読みしてマクモニーグルとなったのでしょう。
有難いことにジョーは、FBI捜査官と呼ばれても、名前を違うように呼ばれても、さほど気にしている感じもありませんでした。「仕方ないなあ」と理解を示してくれています。さすがですね
FBI超能力捜査官」「地球の裏側を見る男」などのタイトルで、日本でも最近話題になっているJoe McMoneagle (ジョー・マクモニーグル)とモンロー研の関係は非常に密接です。
ですからここで、ジョーについてご紹介しましょう。
大ホール・オフィス
坂本、ローリー、ミッツイー
坂本、ジョー、ミッツイー
ポール、フランシーン、坂本
ローリー、ミッツイー

ロバート・モンローとモンロー研究所

まず、ヘミシンクを開発したロバート・モンロー(1915〜1995)についてお話しましょう。
ロバート・モンローというと体外離脱の研究者として殊に有名です。体外離脱(アウトオブボディ、OBE)という言葉自体も、彼が現象をより客観的に表現できるようにと考え出した言葉です。それだけ著名なモンローですが、どういう経緯で体脱を体験し研究するようになったのか、また、その研究を通して何を見出したのかについては、それほど知られていないように思われます。


放送業界で著名に

1937年にオハイオ州立大学を卒業したモンローは、ふたつのラジオ局で放送作家兼ディレクターとしてキャリアを開始します。その後、ニューヨークへ移り、放送業界で実績を積み、独立してラジオ番組制作会社を経営するようになりました。その会社は50年代にいくつもの人気ラジオ番組を制作しています。モンローはラジオ、テレビ、映画用の作曲家としても有名になっていきます。
彼の会社はその後さらに発展し、いくつかのラジオ局を買収するまでになります。さらにケーブルテレビにも進出していきました。

1956年になると、モンローは自らを被験者として、さまざまな音響パターンが睡眠学習や加速学習に与える効果について、研究し始めます。それがその後体外離脱体験を誘発するとは当時予測だにしていませんでした。


この実験を開始してから、昼寝をする際や、夜寝付くときにしばしば、何か通常ではないことが起こり始めました。モンローはそれを「振動状態」と呼ぶようになります。
全身が万力で押さえつけられたかのように、身動きがまったくできない状態になり、全身(後で第二の体だとわかる)が激しく振動するのです。時には光の輪や轟音も伴っていました。

この異常な体験があまりに頻繁に起こるので、ついにかかりつけの医者に見てもらいますが、身体上の異常は見つかりませんでした。
この不思議な現象はその後も続きました。そして遂に58年、モンロー42歳のときに、次の段階へと展開します。


体外離脱体験

それはある晩のことでした。寝付くときに例の振動が始まりました。モンローはしばらくがまんすれば振動が収まることを知っていましたので、今回もそれが過ぎ去るのをじっと待っていました。そうしながら、翌朝のグライダーでの滑空について思いをはせていました。モンローはグライダーを趣味にしていたのです。

天気予報によれば翌日は寒冷前線が通過して快晴になり、強い上昇気流が期待できました。気流に乗って上昇するのは何とすばらしいだろうと心の中で考えていると、肩が何かに当たるのです。いつ床に落ちたのだろうかと不思議に思いながら見渡すと、床の真ん中から光の噴水が出ていました。よくよく見るとそれは天井のシャンデリアでした。下を見るとそこにはベッドが見え、妻がだれかと寝ているではありませんか。これは奇妙な夢を見ているに違いないと思ったモンローは、誰だろうかと近寄って見ると、それは誰でもないモンロー自身だったのです。これは自分が死ぬ過程にあるのだと思い、必死の思いで空間を泳いで体の中へと戻りました。

これがモンローの最初の体外離脱体験です。その後も体脱は頻繁に起こります。モンローは医者や精神科医に見てもらいますが、異常は見つかりませんでした。自分に起こっている現象を理解しようと、ESPで有名なライン教授を尋ねたりしましたが、結局、わかったことは自分で調べるしかないということでした。

そういう経緯からニューヨーク郊外の自宅の裏庭に研究用の建物を経て、そこで音響が意識へ及ぼす効果について実験し始めました。そのころになると他の人が体脱できるようにするにはどうするのがいいのかに興味は移っていきました。そうすることで自分の体験の理解が深まると考えたのです。この研究は後日ヘミシンクという形で実を結ぶことになります。


モンロー研究所

その後、何度か場所は変わりますが、最終的に1970年代の半ばにヴァージニア州のフェイバーに研究施設が建てられました。そこはのどかなブルーリッジ山脈の中にあります。

首都ワシントンから南へ300キロほど、車で3時間半ぐらいのところに位置します.。
見晴らしのいい草原の真ん中に中心的な施設であるナンシー・ペン・センターが立っています。まわりは牧場になっていて、遠く草を食む牛の姿が見えます。
そこから車で山の中へ10分ほど入って行くと、もうひとつの施設ロバート・マウンテン・リトリーツがあります。ここは生前モンローが住居としていたところで、今では各種のプログラムに使われています

モンロー研究所では、モンローの死後もヘミシンクの開発とその応用研究が続けられています。また滞在して受講するヘミシンク体験プログラムが随時開催され、世界各地から参加者が訪れています。モンローの娘ローリー・モンローが現所長を務めています。

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