AQUAVISION ACADEMY - アクアヴィジョン・アカデミー -

  • YouTube
  • お問い合わせ

03-6804-2001(月火・木金 10:00~17:00)

体験シェアルームShared Room

体験シェアルーム

体験シェアルームは、アクアヴィジョン・アカデミーのヘミシンク・セミナーに参加したときの、体験や気づきや、その後の日常生活を通したさまざまな出来事や気づきなどを、発表したり語り合ったり、シェアするための集いの場です。投稿された記事に対して、コメントを投稿することができます。皆さん、どしどし投稿してください。
セミナー会員」であれば、だれでも記事およびコメントを投稿することができます。まだの方は会員登録をお願いします。 初めて投稿するときには、「体験シェアルーム 利用ガイド・利用ルール」に同意していただきます。

SPA体験-1- 量子の見性

2023年3月18日 13:44

ニックネーム:

カテゴリ:スターラインズII

ニックネーム : B
SLⅡとSLRでのSPAの体験談を書こうと決意したのですが、書けないまま時間が経過してしまいました。セミナー参加中は、ヘミシンクのみに時間を使える良い機会なので、断片的に書き進めてみます。
SPA(Subatomic Particle Accelerator; 亜原子加速器)は物理学のメタファーで、ガイドの説明も物理学からの視点が多くありました。
また、SLⅡでは物理学関連のレクチャーが多いですが、その内容に加えて、なぜ非物質世界に重点を置くヘミシンクのセミナーで物理学の情報が重要視されるのか、という視点も重要だと感じます。このため、ガイドの言葉を踏まえて悟り(見性)との関係性や、SLⅡのテーマであるアセンションとの関わりもガイドの説明等から理解できた範囲で記載してみます。

なお、物理学以外では、ゴッドフリー・レイ・キングの著書では、物質的肉体をアセンションさせる原子加速について書かれていて、ジョシュア・デイヴィッド・ストーンの本でも紹介されています。
また、「原子」と「亜原子」という用語にも複数の文脈があり、物理学では原子が電子や原子核から成る複合粒子であったことが判明したため、亜原子は原子よりも小さい粒子(電子、原子核、陽子、中性子、クオーク等)の総称として用いられます。一方、神智学などの立場では、真の基本原子(素粒子)に対して「原子」という用語を用いたため、物理学とは逆に亜原子という用語が複数の原子からなる複合粒子として用いられます。
しかしSPAでの亜原子には、このどちらでもない意味も含まれているように感じられるため、その印象も書いてみます。

[量子力学]
量子力学では、空間に広がった粒子の波動関数が位置の測定によって一点に決定され、それ以前の波の性質を失う事例のように、観測によって一瞬で(相対論での光の速度を超えて)量子状態が変化してしまう。また、量子力学は、どのような数値が観測されるかという点については非常に高い精度で確率的な予測ができるものの、観測によって物理状態が変化する理由は説明していない。
この問題に対する主な説明は、観測によって波動が一点に収縮すると考える主流のコペンハーゲン解釈の他、観測によって観測者は自分の観測した世界に移行して、その観測値以外の波動関数の可能性とは切り離される事で世界が分岐する多世界解釈などがある。多世界解釈の支持者の強調する点は、コペンハーゲン解釈における特定の観測値への収縮という事象は量子力学に含まれておらず、したがって量子力学にしたがって波動関数の全ての可能性をみたすように世界が分岐することで、量子力学の波動関数が維持されるという主張である。
しかし、この多世界解釈への不満を述べるのであれば、世界の分岐という事象もまた量子力学には含まれているわけではない。波動の収縮も世界の分岐も、量子力学が示す世界に含まれないのであれば、収縮あるいは分岐するのは世界や波動関数ではなく、観察者のマインドだとする方が妥当では無いかと思われる。
このような波動関数の収縮は観察者の主観的変化だとする量子力学の解釈の一つとして、2000年代以降、QBism(Quantum Bayesianism;量子ベイズ主義)が提起されている。
ベイズ主義とは、主観的な確率の認識を定式化したベイズの定理に基づいた確率・統計理論である。例えば宝くじを購入する場合、通常の確率理論では宝くじの総数に含まれる当たりくじ総数の割合を真の当選確率と見なして、十分に多くのくじを購入した場合には、大数の法則に従って当たりくじの比率がこの客観的確率に近づくと考える。(頻度解釈)
この一方で、ベイズ主義に基づく確率の主観的な認識では、事前の確率予測がくじを購入するたびに更新される。事前情報が全く無ければ当たりの事前確率を例えば50%と見なして、外れくじが出れば当たりの確率の想定を引き下げ、当たりくじが出れば確率を引き上げる。また、客観的な当たりの割合の情報が入手できていれば、それを事前確率として実際の購入の経験により主観的な確率が事後的に更新されていく。(この全体の当たりくじの割合と異なる確率は、主観的には、当たりくじの偏りや運の良さ/悪さなどとして理解されるかも知れない。)
ベイズ主義を量子力学の解釈に適用すると、波動関数とは各観測主体にとっての事前確率となる。観測行為によって観測者の確率認識が更新され、例えば粒子の位置はある場所に100%存在するというように変更される。
このベイズ的な解釈に基づくと、Aが粒子の位置を観測し友人Bに伝えたような思考実験で、波動はどのタイミングで収縮したのか、Aが観測した時点なのかBが結果を知った時点なのか、という問題(ウィグナーの友人問題)が解消される。波動関数の収縮は各観測者の主観的な認識変化なので、Aが観測を終えたがBにまだ伝えていない時点ではAにとっての波動関数は既に収縮している一方で、観測結果を伝達されていないBにとって波動関数は収縮していない。全ての観測者は、異なる内面世界に住んでいる事になるが、量子力学を超えた予測は存在しないため、間主観的な世界観(AとBが同じ観測結果を共有している)は存在しても、万人にとっての客観的な世界は存在しない。

QBismに対しては、観測者の主観という曖昧な存在を物理学に取り込むことに対する物理関係者からの反論あるい反感が見られる。宇宙は観測者である人間が存在する前から存在しているのに人間の主観で世界が決定されると考えるのは傲慢だ、というように客観的な外的世界を観察者たる人間が認識するという伝統的自然観・物理感が見て取れる。あるいは、違和感の根底には、真実の物理的世界と物理の理論がどのような関係であるの(あるべき)かに関する大きなギャップがある。即ち、量子力学が従来のニュートン力学のように全てを決定論的に計算できないとしても、自然は物理学に従う、あるいは自然が従うような理論を探すのが物理学であるという信念が、反論者のベースとなっているようである。
一方、QBismでは物理理論は個々の観測者の持つ地図であり真の物理世界そのものでは無いとの立場であり、従来の物理理論と自然界との関係とは異なり、物理理論は客観的で確実に実在する世界を司る法則という地位を追われてしまっている。それでは、量子力学ではなく観測される粒子の側に隠れた情報が存在するような、より正しい理論(隠れた変数理論)が存在するという別の道を模索したくなるが、この可能性は実験によってほぼ否定されてしまっている。(ただし否定された隠れた変数理論は局所的な理論なので、非局所的な隠れた変数を持つ理論が存在し、量子力学を包含するものとなる可能性は残されている。)

QBismは相対性理論以上に観測者ごとの世界認識を相対化した。QBismが量子力学の主要な実験結果の全てに合理的な説明を与えられるかどうか、まだ判断できないが、これは波動の収縮というコペンハーゲン解釈の延長線上にある理論であるため、発展途上の理論だという感覚を持っている。将来的には多世界解釈と統合されて、なぜ個々人が分離した視点・内面を持っているのか(なぜ私は他の人から分離したこの私なのか)という問いに答えを与えてくれることを期待している。即ち、なぜ精神を取り扱うのに量子力学が重要であるかという問いに戻ると、量子力学が観測を通じて複数の可能性の中から特定の現実を選択するという特色を持っていて、なぜ私はこの個人として存在しているのかという問題、あるいはエゴの存在に対して、回答を与えてくれるという期待を抱かせてくれる。また、宇宙の始まりから、あるいは宇宙の発生自体も量子力学のメカニズムに基づいていることから、私たちの住む世界は何故このようであるのか、という問いにも関連している。

宗教的伝統には、この状況をより高い視点から見た説明も存在している。大乗起信論の説明では、分離の無い唯一の実体である真如(心)が、それ自体真如の一要素である無明との関係によって業を生み出し分岐していく。それは、途切れることのない一体の波動関数の世界にいたはずの観測者が、観測によって収縮あるいは分岐した特定の世界に閉じ込められていくのに類似して見える。また、荘子は一元的な混沌について語り、プロティノスも一者について説いた。このような宗教的体験の記録に基づけば、私たちは観測者として世界を収縮・分岐させることなく、原初の未踏の世界を把握できるだろうか?
量子力学以前のニュートン力学では、位置や速度、質量、エネルギー、時間は特定の値として決定可能だった。このような決定論は、量子物理学に対して古典的物理学と名称される。実験室の機器による観測は、曖昧だった波動関数を特定の観測結果に置き換える量子から古典への移行だといえる。一般に、ミクロの世界は量子物理学で記述できるが、実験器具や人体のようなマクロな存在がミクロの世界を観測すると、量子の状態を破壊して、ミクロの対象物を古典物理学の世界に移行させてしまう。だとすると、量子論で成立している世界を量子論のまま認識するのは不可能にも思われる。
言語や理性的な理解を超える存在を、その絶対性のまま認識できると主張することを神秘主義だとすると、量子世界をそのままの姿で認識するという主張は、現代版の神秘主義なのかもしれない。

[量子生物学]
マクロな身体を持った人間が量子の世界を破壊せず、マクロな古典論の世界に移行せず、そのままの姿で捉える量子的な認識機能を有している可能性はあるだろうか。常識的に考えれば不可能に思われるが、量子生物学の発展とともに常識が変化しつつあるようだ。
ジム・アル=カリーリとジョンジョー・マクファデンの共著『量子力学で生命の謎を解く』で紹介された事例では、渡り鳥であるヨーロッパコマドリがタンパク質のクリプトクロムの三重項(通常はスピン0の分子がごく短時間スピン1となる量子的状態)反応によって地磁気を肉眼で見ている事例や、人の嗅覚の受容体が300~1,000種類程度しか無く、各受容体は1種類の分子の末端形状にしか反応しないにも拘らず、匂い分子全体の量子的な振動を感知して1万種類を超える匂い分子を分別できる事例などが紹介されている。
なお、ヨーロッパコマドリの事例は2004年ネイチャーに掲載された論文が契機となっているが、人間の眼にも同じクリプトクロムが存在し、ショウジョウバエなどの実験でもヨーロッパコマドリ同様に地磁気を感知できるという結果が得られている。
日本の量子科学技術研究開発機構 量子生命科学研究所でも、カワラバトを用いて追証実験が行われてポジティブな成果を示している。
『鳥の“帰巣本能”を解明する新たな手掛かりを発見』
https://www.qst.go.jp/site/iqls/3mini220715.html

ヒトを含む生物の知覚機能には量子効果が重要な役目を果たしていると同時に、ヒトの物理的身体は原初の量子世界に触れられる機能を持っているようだ。それでは、なぜ通常の意識で見える世界は可能性を孕んだ原初の世界では無く、波動が収縮あるいは分岐した後の古典論的な世界なのだろうか。
QBismの立場に立てば、この理由を観察者の内面に求めることが出来る。そこでは、過去の経験に基づく事前予測が観察で修正され、それが観察結果となるのだった。

では、完全に事前予測あるいは事前の世界観無しに世界を観照したら何がおこるのか。
ジョー・ディスペンザの著作(『あなたという習慣を断つ』、『超自然になる』など)では、日常的な意識状態では現在の経験に留まることが出来ず、過去の記憶を現在の経験に投影し、将来を予想する無意識下のプログラムによって、今にいることのエネルギーを失っていることが繰り返し説明されている。
また、禅語録の中には、何かを知覚した際の見性の話が多く記録されている。ある僧は竹に石が当たった音を聞いて悟り、また別の僧は小川の音を聞いて悟った等々。
京都学派に属する上田閑照は共著『十牛図』の中で、キリスト教神秘主義の系統に属する詩人アンゲールス・ジレジウスの詩の一節「薔薇は何故無しにある、それは咲くが故に咲く」と、宋代の禅僧、廓庵が十牛図の第九「返本還源(へんぽんげんげん)」に当てた頌「水は自ずから茫茫、花は自ら紅なり」を比較している。前者と後者は非常に近い境地にある。しかし上田は、前者には「故に」に微かに根拠を求める精神の残滓を見て、後者との決定的な断絶としている。そこに微かな根拠の構造あるいは何らかの論理があるとき、前提と結論との間には必然的な前後関係が存在し、故に二元性と同時に前提から結論へ向かう時間の矢が暗示されている。そして人は、永遠の今という楽園から追い出されてしまうようだ。

ラジニーシ(OSHO)の講和集をまとめた書籍の中に、『無水夢月』という作品がある。鎌倉時代の御家人安達の娘であった千代野は、俗世への執着を断つため薬品で顔を焼いて修行に励んだものの長く見性を得られなかった。ある夜、いつものように井戸で水を汲み運ぼうとしたところ、桶の底が脱けて表面に映った月とともに水が落ちてしまった。この瞬間、千代野は解脱を得たとされる。この井戸は、現在も鎌倉の海蔵寺に底脱の井として残っている。アインシュタインは「君が見上げているときだけ月が存在していると本当に信じるのか?」と量子力学に関する不信感を生涯抱き続けたという。彼が千代野の逸話やQBismを知ったとしたら、どのような反応を見せただろうか。

鈴木大拙と並んで「2人の鈴木」と呼ばれた禅僧、鈴木俊隆は『禅マインド ビギナーズ・マインド(初心禅心)』の中で、初心者にこそ可能性が拓かれているとしている。QBismの観点で読み解けば、過去の経験の地図を持ち出してしまうベテランは、必然的に古典論的な観察者となってしまい、実相を逃し続ける。禅と関わりの深い茶道の言葉「一期一会」も、この視点からすると「今この瞬間は過去にも未来にもつながっていない唯一無二の経験」という禅定を指し示しているようにも思われる。

なお、もう少し視点を広げると、古典的な機械論ではない量子的な生体のメカニズムは、上述した知覚に限らず光合成から意識のレベルまで知られ始めており、『量子力学で生命の謎を解く』では、死んだ肉体が知覚や恒常性の量子的機能を失って朽ちていく事を踏まえて、物質的な生命現象(生きているという事)自体が量子的な世界とのアクセスの有無で定義できる可能性を示唆している。

ここまで、物質的な次元と見性との関わりに関して、体験談の背景的解説の文章が長くなってしまったので、一旦ここで区切りとしたい。
ヘミシンクの射程は見性で終わるのでは無く、より高次の非物質次元や解脱(モクシャあるいはアセンション)その先の肉体を超えた広義の生命系へ続いており、SPA体験もその次元と繋がっている。次の投稿では、物質次元から非物質次元への架け橋を、ガイドの解説を元に再び物理の観点から記載したい。

コメント(2)
ユーザーアイコン

aya

Bさんお久しぶりです、こんにちは(^^)
知らない単語がいっぱいあって呆然としつつも、とても興味深く読みました。
以下↓のところは、特に印象に残りました。

「波動の収縮も世界の分岐も、量子力学が示す世界に含まれないのであれば、収縮あるいは分岐するのは世界や波動関数ではなく、観察者のマインドだとする方が妥当では無いかと思われる。」
「全ての観測者は、異なる内面世界に住んでいる事になるが、量子力学を超えた予測は存在しないため、間主観的な世界観は存在しても、万人にとっての客観的な世界は存在しない。」
「そこに微かな根拠の構造あるいは何らかの論理があるとき、前提と結論との間には必然的な前後関係が存在し、故に二元性と同時に前提から結論へ向かう時間の矢が暗示されている。そして人は、永遠の今という楽園から追い出されてしまう」

量子って何でしたっけ?という状態の私にも、興味深いと思えるような説明をしてくださるBさんの能力が一番興味深いかもしれない・・・とも思ってしまいました(;^ω^)
セミナーで近々お会いできることを、楽しみにしています(*^-^*)


2023年3月20日 13:00

ユーザーアイコン

B

ayaさん、コメントありがとうございます。
長々と書きましたが、「量子コンピューターの素子と同じで、無理に覗いてしまうと自然な量子状態が壊れてしまいます。」「自分も一緒に一つの量子状態になりましょう。」というお話でした。
今度の1-dayセミナーでお会いできるのを楽しみにしています!

2023年3月20日 13:28

TOP