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体験シェアルーム

体験シェアルームは、アクアヴィジョン・アカデミーのヘミシンク・セミナーに参加したときの、体験や気づきや、その後の日常生活を通したさまざまな出来事や気づきなどを、発表したり語り合ったり、シェアするための集いの場です。投稿された記事に対して、コメントを投稿することができます。皆さん、どしどし投稿してください。
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「2023年3月」の一覧

ニックネーム : B

[エーテル]
SPAのセッションでは、「肉体、感情体、メンタル体、エセリック体」を癒すというナレーションがある。エセリック体(エーテル体)はエーテルダブル(エーテル複体)とも呼ばれ、近代神智学ではインド哲学の微細身(スークシュマ・シャリーラ)に該当するものとして理解された。粗大身である肉体と直接に結びつき肉体の維持を行うと同時に、肉体とより上位の諸身体と結びつけるものとされる。このエーテル体は、無生物を含む全ての物質に存在するとされており、ダスカロスは、物質的な身体だけでなくサイキック体やノエティック体などの上位の諸身体も振動数が異なるエーテル体を纏っていると説明している。スピリチュアリズムの中には、複数の高次身体があるのではなく振動数によって連続的に変化すると考える立場もあり、ダスカロスの見解は、近代神智学とスピリチュアリズムの中間に位置する。
このエーテル体はエーテルを素材とし存在する。エーテルは古代ギリシアにおいて天空の大気とされたアイテールから派生して、アリストテレスが四大元素を拡張して第五元素としたようだ。この第五元素(quintessence)という用語は、現代宇宙論でのダークエネルギーの候補としても利用されており、現在知られている重力、電磁気力、弱い力、強い力に加わる第5の力とする仮説もある。
一方、古代インドでは、地、水、火、風の四大に加えて虚空(アーカーシャ)を空大として五大を形成した。真言密教ではこれに識大を加えて六大としている。ブラヴァッキーが神智学会の拠点をインドに移した後、神智学者は、西洋由来のエーテルとアーカーシャを同一視するようになった。アーカーシャは、宇宙誕生以来のすべての存在について、あらゆる情報がたくわえられているとされている。(アカシックレコード)
ただし、19世紀末までエーテルは神秘主義者の独占物ではなく、海水が波の媒体であるように光の媒体としてはエーテルが存在する事は物理学者の共通理解だった。

[エーテルの否定と場の量子論の成立]
1887年、米国の物理学者マイケルソンとモーリーは、光速に対する地球の速さの影響を調べる実験を行った。太陽の周り公転する地球にはエーテルの風が吹きつけているはずなので、彼らは測定する方向によって光速が異なると考えた。流れる川の上の波や風が吹いている時の音の伝達速度が、流れに沿った方向と逆行する方向で違うことと同じ原理である。しかし結果は、どの角度で測定しても光速が変化せず、実験は完全な失敗に終わった。実在すると信じられていたエーテルの影響は全く無かったのである。これによってエーテルは物理学界からは姿を消す。一方、この失敗した実験の結論「光速の不変性」は1905年の特殊相対性理論の発表につながった。
特殊相対性理論は、光速に近い高速の物理現象を記述するための理論である。特殊相対論は重力の影響を含めておらず、重力の作用を取り入れた一般相対性理論はアインシュタイン自身の何度かの修正の後に1915年頃に成立した。

光速に近い速度で移動する粒子の物理学を記述するには、前掲の量子力学と特殊相対性理論の統合が必要となるため、物理学の次の展開として相対論的量子力学が誕生する。
しかし、光速に近い高エネルギーの粒子を衝突させる散乱実験では、波動と粒子という従来の量子力学での二重性だけでなく、粒子の高い速度エネルギーによって元の粒子と全く異なる種類の多数の粒子やその反物質が生成される事象を記述する必要がある。相対論的量子力学ではこの現象を記述する事ができない。
この状況に対応するために、粒子を波動的に扱う通常の量子力学ではなく、波をその媒体から記述する場の理論を量子化して場の量子論が作り出された。場の量子論では、粒子の生成・消滅を量子的に取り扱う第二量子化によって、粒子のように1つ2つと数える事が出来る量子場上の波が、生成したり消滅したりする描像を表現する。また、ニュートン力学が相対性理論の低速での近似理論であり、マクロな現象での量子力学の近似理論であるように、従来の量子力学は場の量子論における低エネルギー状態での近似理論となっている。

現代物理学の素粒子標準模型は全て場の量子論によって記述されており、現在研究途上の大統一理論(GUT)や超対称性大統一理論(SUSY GUT)も、この場の量子論に基づいて研究されている。重力を含む超弦理論などは、場の量子論とは異なる枠組みだが、超弦理論のさらに高次の理論として超弦の生成・消滅を取り扱う、弦の場の理論(SFT)の研究が進んでおり、量子場は物理の根源的描像と見なされている。
場の量子論による計算では、ファインマン・ダイアグラムという描像が理解しやすく頻繁に用いられる。例えば、手で壁を押すという状況を手と壁の接点だけで説明すると、手の表面の細胞-(の中の)分子-(の中の)原子-(の中の)電子と壁の表面に存在する電子との間の電磁的な力相互作用だが、場の量子論の描像では、手の電子から壁の電子に向かって仮想光子が移動する事で力を伝える。(量子論では、ごく短時間のミクロな現象で光速を超えた光子が存在して「仮想光子」と呼ばれる。)
光子は電磁波であり、電磁波の粒子的描像が光子である。このように日常で働く力の大部分は電磁相互作用であり、電磁相互作用の強さは微細構造定数(アルファ)によって決められる。上述のように2つの電子の間を仮想光子が移動が移動するダイアグラムでは、(手の表面の)電子Aと仮想光子、仮想光子と(壁の表面の)電子Bの計2箇所で粒子間の接点があるため、この反応の力(起きやすさ)はアルファの2乗に比例する。
しかし、量子力学で一つの電子の波動が2つのスリットを通過して干渉するように、場の量子論では類似の異なるダイアグラムからの影響も受ける。例えば、上述の2つの電子の間を仮想光子が移動する場合、仮想光子から電子と陽電子のペアが対生成され、さらに対消滅を起こして再度仮想光子に戻るダイアグラムなどが影響を及ぼす。量子力学で観測されない途中経過が干渉するように、基本ダイアグラムの世界線とは異なるもう一つの世界線が干渉しているような状況である。この場合、元のダイアグラムと比較して、仮想光子と対生成される粒子・反粒子対と対消滅する粒子・反粒子対と仮想光子の2点が追加されるので、影響度は元のダイアグラムに対してアルファの二乗倍程度の大きさ(小ささ)となる。
実験による観測では、この微細構造定数アルファは、約137分の1という値であることが分かっているので、図形が複雑な高次のダイアグラムほどアルファを乗じることで影響度が小さくなっていく。
ここで微細構造定数アルファについて詳述したのは、SPAが存在するF42の施設の名称がSSAS(Space Station Alpha Squared)のようにアルファの2乗を含んでおり、物理理論のメタファーの要素を含んでいる事による。SSASの存在するF42はI/Thereクラスターに接触するフォーカスレベルでもあるが、F34-F35のI/Thereが過去や未来を含む自分自身(※)であるのに対して、I/Thereクラスターは自分の近い存在、アルファの2乗程度異なるダイアグラムのように量子的に隣接する世界線の自分、あるいは異なる世界線で自分であり得た存在のようだ。
(※)文脈によって用語が異なるが、グループソウル(類魂)や全てのソウルエクステンションを含む広義の「ソウル」のように、体験を直接共有する存在はクラスターでは無くI/Thereの側にを含まれるように感じられる。

辻 麻里子の著作『22を超えてゆけ』シリーズの中には場の量子論という言葉は無いものの、1/137が謎の一つとして出てくる。この謎はシリーズの中で明確に解答されていなかったように思う。
なお、F49の施設の名称はSSAXであり、同じ類推をするとSSASとの対比で考えるとアルファのx乗(任意の乗数)のメタファーが含まれている。F42との相違は、I/Thereスーパークラスターには宇宙誕生以来の全ての量子的可能性(任意のx乗の相違を含む)、全ての世界線に対応する存在が含まれていることになる。このような全ての量子過程の影響を足し上げる計算が場の量子論の中に存在し、全てのダイアグラムを足し上げた結果が物理現象の正しい発生確率を与える。このような計算手法は摂動論と呼ばれている。縁起という言葉が示すように、私たちの見る世界は全ての世界線の影響も含むことで成立しているのである。

ここで再びエーテルに話を戻す。上記のとおり、光を運ぶ媒体としてのエーテルは否定されたが、量子場として復権した。量子場それ自体は物質ではなく、マイケルソン・モーリーの実験のようにエーテルの風を起こすような事が無いが、場の量子論に基づく素粒子モデルは精確な予測が実証され続けている。さらに、量子場から予想される真空エネルギーが実験で立証される事で量子場の実在性が確立された。(カシミール効果)
量子場は光を運ぶエーテルの機能に加えて、近代神智学がエーテルと同一視したアーカーシャのように宇宙誕生以来の情報を保持しているだろうか。
場の量子論では、情報が失われない事が知られている。このことを示す特徴的な事象として、ブラックホール情報問題がある。ブラックホールは、質量・回転速度(角運動量)・電荷のみの情報を保持するため、ブラックホールに吸収された物質の情報は消滅してしまうように考えられていた。これは消滅しないはずの情報が消失する物理学の情報パラドックスとされていたが、現在では幾つかの証拠によって情報は消滅せず保存されると考えられている。その証拠の一つは、AdS/CFTと呼ばれるホログラフィック理論の発展である。これは重力を含む弦の理論は、重力を含まない場の量子論の一次元低い時空での理論と等価だという発見である。

ブラックホールは重力現象だが、重力を含まず情報が保存される場の理論と対応関係が付くことから、重力を含む理論の側でも情報が消滅していない事を示唆している。具体的に、どのようにしてブラックホールを含む系の情報が維持されるのかというメカニズムについても複数の研究があり、その一つではブラックホールが物質を吸い込んだ際に拡大するブラックホール表面(事象の地平線)の面積に保存される量子情報と吸い込まれた物質の持つ情報量が同等であるという計算結果があり、ブラックホールが蒸発する時に、表面に保持されていた情報が蒸発する粒子と共に復元される。近年の研究では、ブラックホールは物質を飲み込む巨大な穴では無く、気体、液体、固体などと類似の意味での物質の相転移であり、高密度な状態ではあるが事象の地平面を持たないとの仮説がある。ここでは、凝縮した粒子が高密度の層を成しており、情報は物質粒子と切り離されず、蒸発とともにブラックホールから出てくることになる。
このように、量子場とその構成物からなる宇宙はインド由来のアーカーシャと同じく全ての情報を失うことなく保持しているようである。このように量子場をエーテルやアーカーシャと見なす立場は、示唆的あるいは論証が不十分ではあるが、アーヴィン ラズロ著の『叡知の海・宇宙』などに見られる。

[エーテル体]
エーテルやアーカーシャが量子場だとすると、エーテル体はどのような現象だろう。全ての物質にエーテル体が付随するように、全ての物質に対して派生する場の量子論の現象がある。これは真空偏極と呼ばれ、例えば電子が存在するとき、電子の場は電子の周辺でプラスの電荷とマイナスの電荷が偏極現象を起こす。電子の量子場は粒子を対生成するエネルギーに満たない状態で、無数の電子とその反粒子の陽電子が対になって凝縮した状態である。ただし、量子論的には不確定性原理に基づいて、極めて短い時間であれば高いエネルギー状態を取る事が可能なため、直接観測されない短い時間レベルで真空中の電子と陽電子が対生成と対消滅を繰り返している。真空偏極の中心に単独で存在する電子はマイナスの電荷を持っているので、対生成と対消滅を繰り返す電子・陽電子対のうち、プラスの電荷を持つ陽電子は中心の電子に引き寄せられ、マイナスの電荷を持つ電子は遠くへ押しのけられる。このように、電子の周りの電子・陽電子からなる場の偏極は裸の電子を覆い隠し、実際に物理的な反応をするのは中心の電子では無く、この電子の偏極である。眼が光を感知する時も耳で音を聴く時も、あるいは食品からの栄養吸収や呼吸、脳の中のニューロン反応も、電子そのものでは無く、その周辺の真空偏極が作用している。

インドのウパニシャッド文献および後の時代のサーンキヤ学派やヨーガの身体観では、物質的身体(食物鞘:アンナマヤ・コーシャ)から歓喜鞘(アーナンダマヤ・コーシャ)までの5つの鞘(パンチャコーシャ)のさらに内側に真我(プルシャ)が存在する。この5つの鞘うち、2つ目の生気鞘(プラーナマヤ・コーシャ)がエーテル体に相当し、呼吸によって身体にエネルギーを取り入れて、循環・排出する作用を持つ。3つ目の意思鞘(マノマヤ・コーシャ)は感情体に相当し、4つ目の理知鞘(ヴィジュナーナマヤ・コーシャ)は理性を、5つ目の歓喜鞘(アーナンダマヤ・コーシャ)は記憶を司る。
一方、仏教では粗大身(肉体)や微細身(霊的身体)などの言葉は存在するものの、特に唯蘊無我説の成立時期から大乗仏教での唯識・中観派までの流れ(日本では南都六宗での倶舎宗、法相宗、三論宗)の中で、出来る限り実在論的な身体・物資観を避けて、五蘊(色受想行識)の作用としての説明を重視しているように見える。出所が同じインド哲学にある事から、五蘊と5つの鞘は相互に対応が付く要素が多く、第一の色蘊を食物鞘に対応させ、第二以降の受蘊から第五の識蘊を生気鞘から歓喜鞘に対応させる事が出来る。この場合、第二の受蘊(感受作用)が生気鞘(プラーナマヤ・コーシャ;エーテル体)の作用に該当するので、上述のとおり、物理的身体に沿って存在する量子場の真空偏極がこの役割を果たしている。また、情報を蓄える量子場の作用は歓喜鞘(アーナンダマヤ・コーシャ)あるいは識蘊に対応する。
上記のとおり、全ての物質には真空偏極(エーテル体)が伴うが、量子場そのものには情報が蓄えられており歓喜鞘(アーナンダマヤ・コーシャ;識蘊)の役割を果たすことが出来る。物理学の用語によって、非物質な諸身体を表現する事には違和感が感じられるかもしれない。しかしながら、サーンキヤ学派やヨーガの伝統では、純粋主体(プルシャ)以外の全ての要素は、内面的な思考や感情を含めて全てが認識の対象物(プラクリティ)として物質に近い客体として扱われる。この主体と客体の境界線は、物質世界を自然科学の対象として内面的な思考や感情と区分した、デカルト的(西洋的)な二元論の区分とは大きく異なっている。人工知能を例として考えてみれば分かるように、物体としてのコンピューターだけでなく、CPUで行われる演算(思考)の内容やHDやSSDドライブに蓄積される情報(記憶)を含めて、物質的な理論で理解が可能であり、モニターの前に存在する人(主体;プルシャ)の存在だけが、物質的理論の対象外である。このように、上位の諸身体もまたエーテル体の作用を持つ量子場に対応し、物質的身体に付随するエーテル体と量子状態を介して結合している。

ここまで、主として電子の量子場の真空偏極について記載したが、ゴッドフリー・レイ・キングの著書には電子の身体という表現もある。ただ、その一方で一般には光の身体(ライトボディ)という表現が多いので、電子場の真空偏極が光と同様の作用をし得ることを記載する。前述のとおり裸の電子が存在するとき、その周囲の真空は電子の作る電場の影響で真空偏極を起こし電気双極子を構成する。一方、(可視)光は電磁波が特定の波長域を取る時に眼で見る事が出来る物であり、電場と磁場が相互に作用しながら空間を伝播する波である。このとき、場の量子論の観点では電場が電子の場の真空偏極を引き起こしており、真空偏極が波として伝わっていく現象という側面がある。この反対に真空偏極した量子場は、光と相互作用を起こす。実験においても、電子のようなスピンを持つ粒子を磁場中に置くと、おもちゃのコマが揺れるような歳差運動(振動)する事が実証されており(ラーモア歳差運動)、真空偏極の描像はそのまま光の身体に対応している。なお、量子場には全ての振動数が存在するが、物質(身体)に結合して影響を及ぼすのは、肉体に付随する真空偏極(エーテル体)と共鳴する振動数に限定されると考えられる。
このことから、真空偏極(エーテル体)からなる身体は、振動数を可視光のレベルに上昇させることができれば、光を放つ、あるいは「虹の身体」のように吸収した光を様々な形で放出する事が出来る。さらに、物質的身体周辺の真空偏極を同じ強度でエーテル体で再現した場合、物質体が存在するのと同様に作用するため、非物質の身体で見たり触れたり出来る事も説明できる。
SPAの名称であるSubatomic(亜原子)という名称は、物質的な(量子的に励起した)素粒子だけを想定するのではなく、このような量子場の(半物質的)作用も想定しているようである。

量子論では、このエーテル(体)とそれを構成する量子場には全ての過去の情報を蓄えている。SPAで、エセリック体を癒すという場合、この情報を書き換える事と同義となる。これは別の世界線への移動あるいは過去の変更と同義である。過去が実在して確定しているという考え方からすると、過去の変更という行為は奇妙に感じられるかもしれないが、過去とは現在の量子場に存在する量子情報であり、量子的に並行な世界では異なった過去が存在する。PCのモニターがどのような画像でも表示できるように、多世界解釈での量子場には実現しなかった別の全ての可能性も存在している。
これは『奇跡のコース』の赦しと類似している。奇跡のコースの考え方では世界は実在しておらず、過去も実在では無い。赦しとは単にその過去が存在しなかったことを認識するだけである。
禅の話だが、道元は諸悪莫作を異なった仕方で解釈した。 『正法眼蔵』で、道元は「諸(もろもろ)の悪を作(な)さ莫 ( な ) い」(悪事を働かない)という道徳律ではなく、「諸悪は作(な)され莫 ( な )ない」と読み替えてみせた。ただ量子のダンスがある。エゴは実在せず無我である。故に、行為者も無く行為も存在しない。そして諸悪は為されえない。

量子場には、眼の前の不完全な世界も含まれている。F49のアルファのx(任意)乗の観点では、量子場上の全ての可能性は満たされる事で初めて宇宙は完全となるので、この不完全な世界もまた欠かすことが出来ない。不完全に見える全ての事象を含むことで、宇宙全体は完全である。また、このF49の視点では、全ての可能性が実現されているので、特定の何か(行為)が選択される事が無い。この視点でも、私たちは行為者ではありえない。全ての部分が満たされてF49を超える時、実数が孤立した数の集まりでは無く、より高い密度の一元的存在であるように、非二元の世界が広がっている。

通常のエネルギーでは、真空偏極に覆われた電子の本体を見る事が出来ないが、高い振動数(エネルギー)の光はより電子に近づくことが出来る。このとき、裸の電子に近づくことにより微細構造定数アルファは徐々に大きくなる。この現象は、走る結合定数 (running coupling constant)と呼ばれ、電磁相互作用以外の核力等(強い力、弱い力)に関連する結合定数も高いエネルギー域では徐々に変化する。
このとき、超対称性と呼ばれる機構が存在すると、あるエネルギーで全ての力(電磁気力、強い力、弱い力)が同一の結合定数となり、大統一理論が成立する事が分かっている。超対称性とは、電子のような物質粒子と光のように力やエネルギーを伝える粒子の間の対称性である。したがって、この高エネルギーでは、電子などの粒子は真空偏極無しで反応し、光と同種の存在になっている。それ以上のエネルギー領域では、物質(身体)と光の体のような区分が存在しない。

さらに振動数を上昇させると、重力も統一理論に含まれるようになる。
量子力学に特殊相対性理論を取り込むと量子場という形式でエーテルが表現された。このエーテルから成るエーテル体は肉体と精神が結合する機構であると同時に対外離脱のメカニズムを発生させた。
一方、一般相対性理論によって、重力は時空の歪みであることが分かっている。重力の量子論がどのように定式化されるのか確定していないが、一般相対性理論(時空)を量子化する事で宇宙(時空)を超越する体験のメカニズムへの理解が期待できる。

哲学者イマヌエル・カントは、人間の感性にそなわった主観的な形式であると主張した。この理由の一つとして、人間には物自体を把握する能力が無く物自体そのものを把握できるのは神のみであり、人間は「物自体に触発されて生じる現象」をとらえることができるだけ、という彼の哲学が根底にある。また彼は、認識にアプリオリとアポステリオリの区別を設定し、認識を主観と客観の協働としている。
ここで、物自体を真の実在である量子場に置き換え、粒子描像を「物自体(量子場)に触発されて生じる現象」、アプリオリな認識をQBismでの事前確率の認識とすると、量子論と同一の主張となる。

現在では、宇宙の創成も量子効果によっていると考えられている。宇宙開闢以前の時間も空間も無い「量子場」は、実現可能な全ての宇宙の存在と不在とそれらの宇宙の中での全ての歴史を含み、この宇宙に存在する全ての量子場の可能性を含んだ、時間以前かつ永遠の統一場である。私たちの本質が永遠の存在でだとすると、私たちの故郷もこの統一場であり、また私たちは時間を超えて常にそこに接触している。


カテゴリ:スターラインズII
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ニックネーム : B

参加中のセミナー(ピークウィーク)で、SPA体験の続きに関連したメッセージを受け取ったので、シェアしてみます。

[5つのメッセージ]
今回、2018年に参加したゲートウェイ・ヴォエッジに続くメッセージをもらった。
ゲートウェイ・ヴォエッジでは、「5つのメッセージ」セッションの「5番目のメッセージ」で、碁盤目のヴィジョンが出てきた。(囲碁は、将棋のようにマス目の中では無く、線の交差する「目」に白黒の石を置く。)
トレーナーに影響された駄洒落だと思っていたら、ガイドの解説があり「碁盤には縦横19本づつの線があり、19×19=361つの目がある。360(度)は一回転を表し、フラットな平面上の動きだが、+1がその平面とは異なる垂直方向への新たな動きを表す。」との事。これが、最初のモンロー研プログラムでの印象的なメッセージとなった。

今回のピークウィークでも同じセッションがあり、再度碁盤が出てきた。今回は2つの碁盤があり、2つ目の碁盤は一つ目の碁盤の上に45度回転させた状態で、積み上げられている。上から見ると八芒星の形状で、いつの間にか変化させられていた私の新しいPICコードと同じ図形である。
ガイドに尋ねてみたところ、「2つの碁盤で、目の数は361+361=722。720(度)は2回転で、物質の粒子が元の状態に戻る角度。+2は、その物質界から二段階の上昇を意味する。」との事。
(光以外の、電子やクオークなど物質を構成する粒子は、2回転で元に戻る性質を持っておりフェルミオンと呼ばれる。)

現在の人類が存在する物質界を第三密度とすると、バシャールが言及する人類共通のアセンションの移行先は+1の第四密度だが、ヘミシンクを聴く私たちが目指すのは、+2の第五密度のようである。
また八芒星の8は、新しい位相を意味するとの事。「1オクターブには7つのメジャーな音(ド~シ)があり、8番目の音は次のオクターブの始まり。」「人体上のよく知られたチャクラは7つあり、8つ目のチャクラ(頭上に存在)を活性化するとアセンションが促される。」との説明だった。

なお、メッセージの後、囲碁AIの「アルファ碁」が上下の碁盤で碁を打ち始めた。「アルファ碁」が2台でアルファの2乗だそうだ。(こちらもSPA体験でのメッセージに繋がっている。)


前回の体験シェアの続きとしては、SLⅡで貰ったメッセージ「物質界からのアセンションについての物理の観点での説明」を投稿するつもりでしたが、それを念押しするようなメッセージだったので、シンプルなこちらのメッセージを先にシェアしてみました。


カテゴリ:ピーク・ウィーク
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SPA体験-1- 量子の見性

2023年3月18日

ニックネーム : B

SLⅡとSLRでのSPAの体験談を書こうと決意したのですが、書けないまま時間が経過してしまいました。セミナー参加中は、ヘミシンクのみに時間を使える良い機会なので、断片的に書き進めてみます。
SPA(Subatomic Particle Accelerator; 亜原子加速器)は物理学のメタファーで、ガイドの説明も物理学からの視点が多くありました。
また、SLⅡでは物理学関連のレクチャーが多いですが、その内容に加えて、なぜ非物質世界に重点を置くヘミシンクのセミナーで物理学の情報が重要視されるのか、という視点も重要だと感じます。このため、ガイドの言葉を踏まえて悟り(見性)との関係性や、SLⅡのテーマであるアセンションとの関わりもガイドの説明等から理解できた範囲で記載してみます。

なお、物理学以外では、ゴッドフリー・レイ・キングの著書では、物質的肉体をアセンションさせる原子加速について書かれていて、ジョシュア・デイヴィッド・ストーンの本でも紹介されています。
また、「原子」と「亜原子」という用語にも複数の文脈があり、物理学では原子が電子や原子核から成る複合粒子であったことが判明したため、亜原子は原子よりも小さい粒子(電子、原子核、陽子、中性子、クオーク等)の総称として用いられます。一方、神智学などの立場では、真の基本原子(素粒子)に対して「原子」という用語を用いたため、物理学とは逆に亜原子という用語が複数の原子からなる複合粒子として用いられます。
しかしSPAでの亜原子には、このどちらでもない意味も含まれているように感じられるため、その印象も書いてみます。

[量子力学]
量子力学では、空間に広がった粒子の波動関数が位置の測定によって一点に決定され、それ以前の波の性質を失う事例のように、観測によって一瞬で(相対論での光の速度を超えて)量子状態が変化してしまう。また、量子力学は、どのような数値が観測されるかという点については非常に高い精度で確率的な予測ができるものの、観測によって物理状態が変化する理由は説明していない。
この問題に対する主な説明は、観測によって波動が一点に収縮すると考える主流のコペンハーゲン解釈の他、観測によって観測者は自分の観測した世界に移行して、その観測値以外の波動関数の可能性とは切り離される事で世界が分岐する多世界解釈などがある。多世界解釈の支持者の強調する点は、コペンハーゲン解釈における特定の観測値への収縮という事象は量子力学に含まれておらず、したがって量子力学にしたがって波動関数の全ての可能性をみたすように世界が分岐することで、量子力学の波動関数が維持されるという主張である。
しかし、この多世界解釈への不満を述べるのであれば、世界の分岐という事象もまた量子力学には含まれているわけではない。波動の収縮も世界の分岐も、量子力学が示す世界に含まれないのであれば、収縮あるいは分岐するのは世界や波動関数ではなく、観察者のマインドだとする方が妥当では無いかと思われる。
このような波動関数の収縮は観察者の主観的変化だとする量子力学の解釈の一つとして、2000年代以降、QBism(Quantum Bayesianism;量子ベイズ主義)が提起されている。
ベイズ主義とは、主観的な確率の認識を定式化したベイズの定理に基づいた確率・統計理論である。例えば宝くじを購入する場合、通常の確率理論では宝くじの総数に含まれる当たりくじ総数の割合を真の当選確率と見なして、十分に多くのくじを購入した場合には、大数の法則に従って当たりくじの比率がこの客観的確率に近づくと考える。(頻度解釈)
この一方で、ベイズ主義に基づく確率の主観的な認識では、事前の確率予測がくじを購入するたびに更新される。事前情報が全く無ければ当たりの事前確率を例えば50%と見なして、外れくじが出れば当たりの確率の想定を引き下げ、当たりくじが出れば確率を引き上げる。また、客観的な当たりの割合の情報が入手できていれば、それを事前確率として実際の購入の経験により主観的な確率が事後的に更新されていく。(この全体の当たりくじの割合と異なる確率は、主観的には、当たりくじの偏りや運の良さ/悪さなどとして理解されるかも知れない。)
ベイズ主義を量子力学の解釈に適用すると、波動関数とは各観測主体にとっての事前確率となる。観測行為によって観測者の確率認識が更新され、例えば粒子の位置はある場所に100%存在するというように変更される。
このベイズ的な解釈に基づくと、Aが粒子の位置を観測し友人Bに伝えたような思考実験で、波動はどのタイミングで収縮したのか、Aが観測した時点なのかBが結果を知った時点なのか、という問題(ウィグナーの友人問題)が解消される。波動関数の収縮は各観測者の主観的な認識変化なので、Aが観測を終えたがBにまだ伝えていない時点ではAにとっての波動関数は既に収縮している一方で、観測結果を伝達されていないBにとって波動関数は収縮していない。全ての観測者は、異なる内面世界に住んでいる事になるが、量子力学を超えた予測は存在しないため、間主観的な世界観(AとBが同じ観測結果を共有している)は存在しても、万人にとっての客観的な世界は存在しない。

QBismに対しては、観測者の主観という曖昧な存在を物理学に取り込むことに対する物理関係者からの反論あるい反感が見られる。宇宙は観測者である人間が存在する前から存在しているのに人間の主観で世界が決定されると考えるのは傲慢だ、というように客観的な外的世界を観察者たる人間が認識するという伝統的自然観・物理感が見て取れる。あるいは、違和感の根底には、真実の物理的世界と物理の理論がどのような関係であるの(あるべき)かに関する大きなギャップがある。即ち、量子力学が従来のニュートン力学のように全てを決定論的に計算できないとしても、自然は物理学に従う、あるいは自然が従うような理論を探すのが物理学であるという信念が、反論者のベースとなっているようである。
一方、QBismでは物理理論は個々の観測者の持つ地図であり真の物理世界そのものでは無いとの立場であり、従来の物理理論と自然界との関係とは異なり、物理理論は客観的で確実に実在する世界を司る法則という地位を追われてしまっている。それでは、量子力学ではなく観測される粒子の側に隠れた情報が存在するような、より正しい理論(隠れた変数理論)が存在するという別の道を模索したくなるが、この可能性は実験によってほぼ否定されてしまっている。(ただし否定された隠れた変数理論は局所的な理論なので、非局所的な隠れた変数を持つ理論が存在し、量子力学を包含するものとなる可能性は残されている。)

QBismは相対性理論以上に観測者ごとの世界認識を相対化した。QBismが量子力学の主要な実験結果の全てに合理的な説明を与えられるかどうか、まだ判断できないが、これは波動の収縮というコペンハーゲン解釈の延長線上にある理論であるため、発展途上の理論だという感覚を持っている。将来的には多世界解釈と統合されて、なぜ個々人が分離した視点・内面を持っているのか(なぜ私は他の人から分離したこの私なのか)という問いに答えを与えてくれることを期待している。即ち、なぜ精神を取り扱うのに量子力学が重要であるかという問いに戻ると、量子力学が観測を通じて複数の可能性の中から特定の現実を選択するという特色を持っていて、なぜ私はこの個人として存在しているのかという問題、あるいはエゴの存在に対して、回答を与えてくれるという期待を抱かせてくれる。また、宇宙の始まりから、あるいは宇宙の発生自体も量子力学のメカニズムに基づいていることから、私たちの住む世界は何故このようであるのか、という問いにも関連している。

宗教的伝統には、この状況をより高い視点から見た説明も存在している。大乗起信論の説明では、分離の無い唯一の実体である真如(心)が、それ自体真如の一要素である無明との関係によって業を生み出し分岐していく。それは、途切れることのない一体の波動関数の世界にいたはずの観測者が、観測によって収縮あるいは分岐した特定の世界に閉じ込められていくのに類似して見える。また、荘子は一元的な混沌について語り、プロティノスも一者について説いた。このような宗教的体験の記録に基づけば、私たちは観測者として世界を収縮・分岐させることなく、原初の未踏の世界を把握できるだろうか?
量子力学以前のニュートン力学では、位置や速度、質量、エネルギー、時間は特定の値として決定可能だった。このような決定論は、量子物理学に対して古典的物理学と名称される。実験室の機器による観測は、曖昧だった波動関数を特定の観測結果に置き換える量子から古典への移行だといえる。一般に、ミクロの世界は量子物理学で記述できるが、実験器具や人体のようなマクロな存在がミクロの世界を観測すると、量子の状態を破壊して、ミクロの対象物を古典物理学の世界に移行させてしまう。だとすると、量子論で成立している世界を量子論のまま認識するのは不可能にも思われる。
言語や理性的な理解を超える存在を、その絶対性のまま認識できると主張することを神秘主義だとすると、量子世界をそのままの姿で認識するという主張は、現代版の神秘主義なのかもしれない。

[量子生物学]
マクロな身体を持った人間が量子の世界を破壊せず、マクロな古典論の世界に移行せず、そのままの姿で捉える量子的な認識機能を有している可能性はあるだろうか。常識的に考えれば不可能に思われるが、量子生物学の発展とともに常識が変化しつつあるようだ。
ジム・アル=カリーリとジョンジョー・マクファデンの共著『量子力学で生命の謎を解く』で紹介された事例では、渡り鳥であるヨーロッパコマドリがタンパク質のクリプトクロムの三重項(通常はスピン0の分子がごく短時間スピン1となる量子的状態)反応によって地磁気を肉眼で見ている事例や、人の嗅覚の受容体が300~1,000種類程度しか無く、各受容体は1種類の分子の末端形状にしか反応しないにも拘らず、匂い分子全体の量子的な振動を感知して1万種類を超える匂い分子を分別できる事例などが紹介されている。
なお、ヨーロッパコマドリの事例は2004年ネイチャーに掲載された論文が契機となっているが、人間の眼にも同じクリプトクロムが存在し、ショウジョウバエなどの実験でもヨーロッパコマドリ同様に地磁気を感知できるという結果が得られている。
日本の量子科学技術研究開発機構 量子生命科学研究所でも、カワラバトを用いて追証実験が行われてポジティブな成果を示している。
『鳥の“帰巣本能”を解明する新たな手掛かりを発見』
https://www.qst.go.jp/site/iqls/3mini220715.html

ヒトを含む生物の知覚機能には量子効果が重要な役目を果たしていると同時に、ヒトの物理的身体は原初の量子世界に触れられる機能を持っているようだ。それでは、なぜ通常の意識で見える世界は可能性を孕んだ原初の世界では無く、波動が収縮あるいは分岐した後の古典論的な世界なのだろうか。
QBismの立場に立てば、この理由を観察者の内面に求めることが出来る。そこでは、過去の経験に基づく事前予測が観察で修正され、それが観察結果となるのだった。

では、完全に事前予測あるいは事前の世界観無しに世界を観照したら何がおこるのか。
ジョー・ディスペンザの著作(『あなたという習慣を断つ』、『超自然になる』など)では、日常的な意識状態では現在の経験に留まることが出来ず、過去の記憶を現在の経験に投影し、将来を予想する無意識下のプログラムによって、今にいることのエネルギーを失っていることが繰り返し説明されている。
また、禅語録の中には、何かを知覚した際の見性の話が多く記録されている。ある僧は竹に石が当たった音を聞いて悟り、また別の僧は小川の音を聞いて悟った等々。
京都学派に属する上田閑照は共著『十牛図』の中で、キリスト教神秘主義の系統に属する詩人アンゲールス・ジレジウスの詩の一節「薔薇は何故無しにある、それは咲くが故に咲く」と、宋代の禅僧、廓庵が十牛図の第九「返本還源(へんぽんげんげん)」に当てた頌「水は自ずから茫茫、花は自ら紅なり」を比較している。前者と後者は非常に近い境地にある。しかし上田は、前者には「故に」に微かに根拠を求める精神の残滓を見て、後者との決定的な断絶としている。そこに微かな根拠の構造あるいは何らかの論理があるとき、前提と結論との間には必然的な前後関係が存在し、故に二元性と同時に前提から結論へ向かう時間の矢が暗示されている。そして人は、永遠の今という楽園から追い出されてしまうようだ。

ラジニーシ(OSHO)の講和集をまとめた書籍の中に、『無水夢月』という作品がある。鎌倉時代の御家人安達の娘であった千代野は、俗世への執着を断つため薬品で顔を焼いて修行に励んだものの長く見性を得られなかった。ある夜、いつものように井戸で水を汲み運ぼうとしたところ、桶の底が脱けて表面に映った月とともに水が落ちてしまった。この瞬間、千代野は解脱を得たとされる。この井戸は、現在も鎌倉の海蔵寺に底脱の井として残っている。アインシュタインは「君が見上げているときだけ月が存在していると本当に信じるのか?」と量子力学に関する不信感を生涯抱き続けたという。彼が千代野の逸話やQBismを知ったとしたら、どのような反応を見せただろうか。

鈴木大拙と並んで「2人の鈴木」と呼ばれた禅僧、鈴木俊隆は『禅マインド ビギナーズ・マインド(初心禅心)』の中で、初心者にこそ可能性が拓かれているとしている。QBismの観点で読み解けば、過去の経験の地図を持ち出してしまうベテランは、必然的に古典論的な観察者となってしまい、実相を逃し続ける。禅と関わりの深い茶道の言葉「一期一会」も、この視点からすると「今この瞬間は過去にも未来にもつながっていない唯一無二の経験」という禅定を指し示しているようにも思われる。

なお、もう少し視点を広げると、古典的な機械論ではない量子的な生体のメカニズムは、上述した知覚に限らず光合成から意識のレベルまで知られ始めており、『量子力学で生命の謎を解く』では、死んだ肉体が知覚や恒常性の量子的機能を失って朽ちていく事を踏まえて、物質的な生命現象(生きているという事)自体が量子的な世界とのアクセスの有無で定義できる可能性を示唆している。

ここまで、物質的な次元と見性との関わりに関して、体験談の背景的解説の文章が長くなってしまったので、一旦ここで区切りとしたい。
ヘミシンクの射程は見性で終わるのでは無く、より高次の非物質次元や解脱(モクシャあるいはアセンション)その先の肉体を超えた広義の生命系へ続いており、SPA体験もその次元と繋がっている。次の投稿では、物質次元から非物質次元への架け橋を、ガイドの解説を元に再び物理の観点から記載したい。


カテゴリ:スターラインズII
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ニックネーム : CH

 2022年6月12日にシェアルームで『ミランダさんの物語』をシェアさせて頂いたCHです。昨日、その後の体験談ができたので、是非、シェアさせて頂ければと思いました。
 去年のSLR後は、なかなかヘミシンクに集中できる機会がなくなり、合宿が懐かしいと過ごしていました。そんな中、一緒にSLRまで駆け抜けてきたAさんが、ズームを使って、「みんなでヘミシンク」を1カ月に1回、開催して下さるようになりました。ズームとはいえ、一人でやるのとは違い、場のエネルギーは半端ないと感動している日々です。
 昨日、3月12日にも「みんなでヘミシンク」が開催され、昨日のテーマは救出活動でした。何か目標を決めて皆でという救出ではなく、一人一人がそれぞれで救出活動をすることになり、WAVE VII の#5 『救出活動』を使いました。
 久しぶりに訪れたF27のスペシャルプレイスは、何となく、やさぐれ、左側が荒れ放題で暗い感じになっていたので、引っ越しました。
 F27で、ガイドやヘルパーさんにお願いし、F23へ救出活動に。ふと見ると、さっちゃん(私のウニヒピリ)がいました。途中、F26かF25辺りでさっちゃんは怖いとこわばって、泣きそうになり私にしがみついて来たので、これじゃ、進めないぞと、おんぶ紐で背中に括り付けました。ヘルパーさんたちの様子を見ると、久しぶりに、えんじょうさん、ミランダさん、エネっちゃん、カクっちゃんが勢ぞろいしていて、びっくり!!久しぶりに皆さんにお目にかかれました。(詳しくは、2022年6月12日の『ミランダさんの物語』を御参照頂ければ幸いです。)
 F23に着くと、すぐに、そこにはどす黒くコールタールの様な物を全身からしたたらせ、ヌラーとした人が立っていました。全体がすごく重いらしく、頭は特に重そうでお腹の辺りまで下がっています。びしょ濡れの感じで周りにそれがタラタラと垂れており、ドブネズミより汚いなあと思って見ていました。
 次の瞬間、えんじょうさんがヌラーの右肩を支え、私が左肩を支えていました。・・・これって、ミランダさんの時と同じパターン!違うのは、今回はミランダさんが私たちを先導し、エネッとカクッが周りを飛び跳ねながら上がっている!!と感動しました。
 F27の公園に到着すると、1人のヌラーは沢山の真っ黒な人影になりました。・・・多分、12歳の私、13歳の私・・・・40歳くらいの私まで、本当に沢山ズラーといました。
 今迄、大変だったよね!よく頑張ったね!ありがとう、ごめんね、許してね、愛してる!ゆっくりとここで癒そうね。ホーと楽になり、癒されるには、何がいいかなと今の私が聞きました。
皆が口々に言いました。
「温泉!」「海~!で、掘ったら温泉が出てくる!!」「プールみたいに大きい露天風呂!」「露天風呂で泳いでも怒られない所!」「部屋付き露天風呂!」「プール!で、プールサイドにカクテルが飲めるバーがあったら最高!」「美味しいものが食べたい!」
で、結局、温泉が出る海辺の大露天風呂・プール・プールサイドにはバー・部屋付き露天風呂があり、料理も美味しい旅館に癒されに行くことになりました。
 えんじょうさん、ミランダさん、エネッっちゃん、カクっちゃんにお礼を言うと、皆は上に戻って行きました。
 私とさっちゃんはF27のスペシャルプレイスに戻りました。さっちゃんは、スペシャルプレイスにいつの間にか置かれているトランポリンで飛び跳ね、ハンモックに揺られながら、ジュースを飲んでいました。楽しそうに明るくくつろいでいるさっちゃんを見て、ホッとしました。多分、救出に行く時から、さっちゃんはわかっていたんだなと・・・。私もうすうす、何を救出するかはわかっていました。なかなか幼い頃・過去の自分を救出しようと思っていても、難しかったので、昨日は、大事業を成し遂げた感があります。
 昨日の今日なので、まだ、私自身、揺らいでいますが、これを書くことにより、また一段と手放せた気がします。
 一人でやっていてはなかなかここまで上手く行かないのですが、このようなことができる機会を与えて下さったAさんには、心から感謝ですし、昨日の参加者の皆様のエネルギー的なサポートも感謝です。そして、ズームでヘミシンクができるまでに私たちを毎回トレーニングして下さった坂本様はじめアクアヴィジョンの全てのスタッフの皆様に感謝です。ありがとうございます。

カテゴリ:ライフライン
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ホンマニアッパレ

2023年3月 8日

ニックネーム : 匿名希望者

ヘミシンクでは無いのですが、般若心経の一曲目
私の耳がおかしいのか、繰り返される歌詞が何度聴いても「ホンマニアッパレ」と聞こえ、笑いそうにぬり、体が緩んできました。
最後の歌は、体の奥底から噴き上げる感覚があり、何故か自然に涙がこぼれてしまいました。ありがとうございました。

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非二元にふれる

2023年3月 6日

ニックネーム : ガイアの旅人

トレーナーの森岡万貴さんとは、10年ほど前、「倍音声明」のセッションをされていた頃ご縁があり、三輪山、三輪神社にもご一緒させていただきました。しばらくご無沙汰していましたが、いつの間にか非二元の講師になっておられたので、少々驚きました。
「非二元」は精神世界のなかでもかなりの難物なので、どんな方々が来られるのか、どんなセミナーになるのか、期待と不安が入り混じった気持ちで参加させて頂きました。

万貴さんは冒頭「私、森岡万貴はいません。わかりますか?」というような宣言から入られました(という曖昧な記憶)。参加者があっけにとられていると、「いやぁ、皆さん頷いておられて、質問がないというのは理解されているということですね?素晴らしい!」とドンドン話を進めていかれました。まぁ、そもそも何を言われているのか、よく分からない、ということかもしれなかったのですが・・・(笑)
セミナー内容の詳細は割愛しますが(適切な説明の方法がないので)、一部、ヘミシンクや万貴さんの歌唱の音源を使いながら、「非二元とは」的なことを一生懸命説明されていました。非二元は、禅でいうところの不立文字の(言葉では説明できない)世界なので、それを言葉で説明するというのは、矛盾というか、はなはだ困難というか・・・万貴さんもそれを承知のうえだと思いますが、「これ以上、何も言えないんですよね」というところも多く、参加者の皆さんも理解が少し難しかったかもしれません。それでも皆さんの反応は、私の勝手な想定以上!で、世の中、変わってきているんだなぁ、と実感しました。

私自身は、「非二元」とは『「自分」や「自分vs.他人(外部)の関係性」が存在するという固定観念がマインドの幻想であり、ワンネス(全体性=真実)から離れている、ということに気づいている状態』と理解していました(あえて言葉にすれば)。しかし、今回のセミナーに参加して、いつの間にか「マインドの幻想」に舞い戻っていたところがたくさんあるなぁ、と少々ホロ苦い気持ちになりました。マインドはなかなかの強敵です!

因みに、非二元の観点では、宇宙人とのコンタクトや、別次元への地球への移行、輪廻転生など、すべては幻想である、ということになります。もちろん現在の三次元生活も幻想ということなのですが、マインドはストーリーが大好きで、「いや、これは現実だ」と断定し、時間と空間が存在することを前提に、「意識進化していく自分」(輪廻転生する自分)や「自分の外側にある様々な宇宙存在」を肯定します。そのストーリーが有効であるあいだ、マインドは「生き続けることができる」からです。このマインドのトリックを見破ってしまえば、モンロー研のほかのセミナーに出る必要は全くない、ということになってしまうのですが(笑)

いずれにしても、私にとっては非二元を再確認する有意義な一日となりました。トレーナーを務めていただいた万貴さん、コーディネートして頂いた文さん、改めて御礼申し上げます。
雑文をお読みいただいた皆さま、ありがとうございました。



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ニックネーム : Eri

GVに参加したのでライフラインに参加すべきか迷っています。今朝、潮風に吹かれながら浜辺近くの道をチャリをこいでいました。その時ふと、「ライフラインに参加しないの?」と直感的にメッセージを受け取りました。ライフラインで私が救出すべき存在はいるだろうか?自問しました。ら・・・。なぜか中学時代の私がとらわれているヴィジョンがぱっと見えました。中学時代の私は、私と目があいました。直観的に「過去の私は今の私に救われるのを待っているのか」と思いました。以前きいたことがあるのは、、、「ライフラインに参加して救出すべき存在が見えたとき、よく見たら前世の私でしたというケースが非常に多い」ということです。しかし、前世ではなく子供時代の私です。今世の私なわけですが…???実際、ライフラインに参加して能力開発して、子供時代の自分を発見して救出するケースもあるんですか?

カテゴリ:ライフライン
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